2010年4月21日水曜日

こんなものを読んだ

山口優夢の読書日記です。
このページをブログの目次として、各ページに飛びやすいようにリンクを貼って行きます。
基本的には、自分用のメモみたいなものなので、文章が分かりにくいところがあるかもしれませんが、ご容赦ください。

一応、取り上げる本に関してはネタばれもしていると思うので、全部読んでからご覧になることをおすすめします。

以下、目次です。

1Q84 著・村上春樹 新潮社 (作成日 2010年4月21日)

1Q84 村上春樹

ぐいぐいとひっぱってゆくようなストーリー性と、比喩や例示を多用した独特の文体。どの登場人物のせりふも文体が似てきてしまう(思わせぶりで暗示的。それに、複数の人物が「私の言ってることが分かる?」と聞くなど、使用する語彙が驚くほど似通ってくる)、という欠点はあるものの、それぞれの人物の描写はなかなか的確で、それぞれ読ませるものがある。天吾を支えることになるふかえりも、青豆を支えることになるタマルも、十分に魅力的だ。

これは何と言っても青豆と天吾がふたたび出会うための物語、と言えよう。BOOK3まで出て、ようやくそれがはっきりした。人間と人間は、もちろん出会ったあとが大変なのだ。それが大人の見方だ。この物語は、ある点では実にイノセント過ぎて、大人のための文学とは言えないところがある。つまり、青豆が求めているのは10歳のころの天吾であり、天吾が求めているのは10歳のころの青豆である。その二人が20年ぶりに会ったからといって、そううまくいくはずはない、少なくともそれはゴールではなくスタートに過ぎないはずだ…。それが、大人の見方、である。

しかし、そのような無力な「子供」を描くことこそが、村上春樹の目指すところのものだったのではないか。大人たちの「システム」の中で、彼らは傷ついた子供に過ぎないのだ。彼らは1Q84の世界においては、ある意味、子供なのである。世の中のルールを知らない。もっときちんと言えば、彼らの抛り込まれた世界では、自分の知っているルールの通用しなくなった。そしてこの世界のルールは、どこまで行っても不可知だ。空気さなぎとは何か。リトルピープルは何者か。手掛かりはあるし、概観としては分かっているが、それらを動かしている本当の力が一体どんな原理に基づいているのか、誰にもそれは分からない。

その中で彼らは友達の婦人警官を、また、年上の人妻を失わなければならない。彼女らはなんのために失われたのか。それは少なくとも青豆と天吾には分からない。意味もなくそれらは奪い取られるのだ。

村上春樹が使った、壁(システム)と卵(個人)の比喩を用いて言えば、これは徹底して卵(個人)の側の物語なのだ。彼らは大人になって壁を作る側には回らない。実際の世界では、壁を作る側にいる人もたくさんいるけれども、結局のところ、そういう人たちも一人一人を取りあげると卵ということになるのだろう。人間には宇宙の原理が全く分かっているわけではないのだから。

次に何が起こるか分からない世界で、彼らは直感で物事の善し悪しを判断するしかない。そこでは倫理でさえもが「壁」、すなわちシステムだ。そして、自分たちが論理の通じない世界で生きてゆくためのよすがになるものとして、彼らはお互いを求める。なぜ青豆にとってそれが天吾でなくてはならず、天吾にとってそれが青豆でなくてはならなかったか。

二人はおそらく同じように孤独で、同じように強く何かを求めていたはずだ。無条件で自分を受け入れ、抱きしめてくれるような何かを。(BOOK3 第10章(牛河)ソリッドな証拠を集める)

彼らは、それを互いに求めた。そもそも、それは本来、親に求められるべきものだった。無償の愛。しかし、それは個々の事情によって達成されなかった。青豆の親は宗教を自分の娘に押し付けた。天吾の父はNHKの集金人だった。どちらの親も、「システム」を構築・維持するために自分の子供を利用した。そして、そんな彼らと生れを同じくしているという点で、ここに牛河が登場する余地が生じる。牛河の場合は、エリート一家に生まれた見かけの悪い福助頭の遺伝子が災いしたことになる。

だから、この3人だけが、直接的に宗教団体やNHKの集金人といった「システム」による迫害を受けることになる(天吾の場合、集金人の迫害はふかえりが身代わりとなったわけだが)。システムと個人、という村上春樹自身が持ちだしたキーワードを用いると、実に単純にこの物語が整理できることが分かる。

システムの手を逃れ、個人がどこまでも個人として生きてゆくということ。そのために言葉以前の世界で人間と人間が結びつくということ。

説明しなくてはそれがわからんというのは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ (BOOK2 第8章(天吾)そろそろ猫たちがやってくる時刻だ)

天吾の父は天吾にそう語った。言葉で考えるまでもなく、青豆と天吾は結びついているのでなければならないのだ。彼らが小学校時代に出会って、手を握った・握られた、という強烈なシーンを共有した。それが生きてゆく糧となった。そのことは、今も彼らが基本的には小学生のときと同様に、わけのわからない世界に取り囲まれているのだということを示唆してもいるだろう。それこそが、1Q84あるいは猫の村、なのだった。

少なくともBOOK3の終りまでで分かっているところでは、青豆と天吾の間の関係にはお互いに齟齬がない。これは、彼らが互いに他者になり得ていないということを意味しているとは言えないか。彼らはお互いが何者であるか一点の曇りもなく分かっている。それは、彼らが原理的には一つの自我だから、と言ってもいい。しかし、現実にはどんなに愛する人であっても、自我は一人に一つしかない。お互いの心の中にはお互いに理解不能な闇があるものだ。しかし、この物語はそこに言及しない。なぜなら、これは出会うまでの物語だから。ある意味では、これはあまりに理想的な物語なのだ。

逆に、システムとの間には一切の対話は成り立たない。システムを構成する者(たとえばリーダー、たとえば天吾の父)との間には部分的に対話は行なわれる。しかし、それは十分に彼らと向かい合ったと言えるだろうか。全ては遅かった、とも言える。天吾の父は認知症になってしまっていたし、リーダーには時間が無さ過ぎた。

システムそのものは、そもそもそういった個人とはかかわりが無い。システムは個人を押しつぶす存在としてどこまでも彼らを脅かす。青豆も天吾も、リトルピープルとは和解できない。そこに対話は成り立たない。

つまり、ある意味では、この物語ではどこにも対話なり和解なりといったことは成り立っていないのだ。この物語に満ちているのは、コミュニケーションではなく、生き延びるための戦略としての会話と、自分を相手に受け止めてほしい、それと同じ強さで相手を受け止めたい、という言葉にならない意思なのである。全ては青豆なら青豆の、天吾なら天吾の中で進んでいる出来事であり、そんな青豆と天吾の間にも言葉は要らない。この物語の志向するところ、すなわち、明確なメッセージは、ただ一つ。

私はもうこれ以上誰の勝手な意思にも操られはしない。これから私は自分にとってのただひとつの原則、つまり私の意思に従って行動する。私は何があろうとこの小さなものを護る。そのために私は死力を尽くして闘う。これは私の人生であり、ここにいるのは私の子供なのだ。誰がどのような目的のためにプログラムしたものであれ、疑いの余地なくこれは私と天吾くんとの間にもうけられた子供だ。誰の手にも渡しはしない。何が善なるものであれ、何が悪なるものであれ、これからは私が原理であり、私が方向なのだ。誰であろうとそれだけは覚えておいた方がいい。 (BOOK3 第26章(青豆)とてもロマンチックだ)

周りが何と言おうと、自分は自分の直感に従って動く…。そのような女性に、同じく一人の男性が同調することで物語は終幕を迎える。

これは、村上作品においてはあまりなかった事態ではないだろうか。

私が今まで読んだことがある村上作品は、せいぜい『風の歌を聴け』『ノルウェイの森』『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』『スプートニクの恋人』といった有名作品くらいのものだが、およそどの物語でも、女は自分の直感を信じて行動し、その結果、世界を越えてしまい、そこに男は戸惑いながら残される…このような枠組みがあったと理解している(もちろん、『ねじまき鳥クロニクル』も『羊をめぐる冒険』も読んでいないので、そう断言したものか、本当はよく分からないのだが)。しかし、この物語では、男は女に同調する。そして、ともに生きてゆくことになる。

それまでの作品では起こっていたはずの男女間のコミュニケーションの失敗は、ここでは生じない。なぜか。

それは、これから起こることなのかもしれない。なにしろ、これは出会いの物語に過ぎないのだから。

村上春樹は、それをこれから書くつもりなのか、それともそれを書きたくない(あるいは、書く必要がないと考えている)からBOOK3で筆を措くつもりなのか、そこまでは僕には分からない。